「孤独」というのは小説の中でだけ好まれる表現ではなく、衣服のように日常に纏うものなのだと、彼をみて初めてわかった。 遠目からでも、ひょろりとした長い体躯をみつける度に、あたしは今すぐここから逃げ出して、世界の果てまで駆けていって、凍りつくような極寒の中で、自分の正気を確かめたくなる、なぜならゆるゆるとながれる退屈な学生生活の中で薄く笑う彼は、とても、とても普通に映るからだ。なぜ、そのような重さを内側に抱えてなお、一枚の羽の軽さで笑えるのか?度数のないレンズごしの黒い瞳の幸福をおもって、あたしは自分の想像の世界の果ての道に、膝をつき、体をかかえる。

ほんとうは背をむけずに、ゆっくりと歩んで、おそるおそるとも、その瞳をのぞきこめばいいのかもしれない。
けれど、この身に返る反射がこわくて、紡ごうとした言葉にもならない呼吸は闇にきえる、それは恋の空気を孕んでいるかもしれないのに............ ついた膝が砂利ですり切れ、痛みに赤がまざる。
そして、ここにホンモノの彼はいない。




こんな夢ばかり夜明け頃に、みるー






「はい忍足、コレあげる」

「なんや、これ?」

「裏みてみ」

「おっ、ラブレターやん!」

「うん」

「...........て、ちょいまてえ」

「ん?」

「これお前ちゃうやん?」

「あったりまえじゃん、頼まれたんだよ」

「またか」

「まただよ」

「すまんなー」

「あやまんならもう色目つかうな」

「色っぽいんは生まれつきや」

「どーでもいいよ」

「それは悲しいなあ」

「何が?」



「お前にだけはようきかん」





跡部が言ったことがある。
お前たちはよく似ている、と。
うれしさよりも悲しみがまさる声音、ひとつ溜息をついて、深い群青色の前でぽろり、と涙がながれた。
肩をさする思いがけないやさしい王様の手、昔にながめた生物図鑑のわすれられない一幕が脳裏をかすめた。蟷螂、あの鋭利な、しなやかな美しい昆虫。彼らは捕食する他者がいなくなれば、あっけなく側にいる同種を食らう。つがった相手ですらそうだ、たった最後の二匹でいることが、なんと難しいことか。
図鑑の絵はこうだ、鎌状の前脚で相手をおさえたメスが笑うように大きく口を開けて、顎を突き出す。


カプリ。







「はい、忍足」

「なんや?これ?」

「いつもの」

「あー、またか」

「まただよ」

「ほんますまんなー、おっ今回字可愛い」

「...........」

「なんや?」

「もういいかげんひとりに決めたら?」

「はは」

「なんで笑うの?」

「やっぱ悲しいわ」

「?」



「俺、笑ってる風にみえんねんな」







今日もあたしは夢を、みる。
世界の果てにて、彼のいない夢で、彼を想う。
ふるえる手で図鑑を閉じてうずくまったあたしの足元に影が落ちる、誰もいないはずの正面をみあげて
いぶかしげにしても、完璧な口角をあげて、容赦なくやさしく肩に手をおき、夢の中の王様は言う。


「知ってるか?................あいつ、お前が渡した手紙の相手は断らないんだぜ?」





呼吸を欲するように、ハッと、目がさめる。
ひとり、真っ暗な室内でまだ夜明け前なのだと気づく。
体に纏う薄いブランケット越しに、真夜中のつめたい寂しさがひたひたと。
最後の制服にかざる生花のはなやかな匂いが、ふんわりと部屋に漂った。
ぼんやりと、思いだす。


そうだ、今日は、卒業式だ。






一段高い壇上からながめれば、はるか後ろの席で、馬鹿みたいに長太郎が泣いていた。
おおきな体を震わせて、ただ、泣いていた。
「ほんとうにバカみたいだなあ............」と思っていたら、胸の生花の花びらが水滴に濡れていた。
つるり、と自分の頬をなでれば、その理由がわかった。



人ごみをかきわけて、なんとか見つけたい長身を探そうとする。眩いシャッター音、かわるがわるぶつかる
やわらかい体と甘い髪、ほとんど半狂乱の泣き声にとまどっていたら、ポンッと背中に強い腕がそえられ
この混乱をつくりだした人物が耳元で囁いた。

「あっちだ」

ぐいっと押し出される体。
すぐに栗色の髪はざわめく背後の群衆に揉まれ、掻き消えた。
幸運を祈るような背中の熱さだけを残して。



あたしは走る。










「............どうしたん?息きらして」
「............ひと、いない」


ぽつり、と校舎裏に一人たたずむ影。
目を伏せて、肩をすくめた。



「逃げてきたからなあ」
「あたしも」
「跡部、絶対ああなるおもて」
「そうじゃなくて」



ゆっくりと、忍足の長い前髪が風にさらわれる。
うっとおしいな、でも、きれい、何度もそう思った瞬間が、また。




「逃げてた、三年間」

「忍足から」




ゆらりと、泣くかと思うぐらい、きつい目じりが淡くゆれた。



「............俺も」

「逃げてたわ、手紙の子らに」



あたしは、言う。



「...........いつか、今度こそは、断ってくれたらって、思ってた」



忍足は、答える。



「............いつか、今度こそは、お前からやって思いたかった」




今度は忍足が聞く。



は、どこまで逃げたん?」

「世界の果て」

「えっらい遠いなあ」



ふたりで笑った。





遠くから校舎内のさわがしい喧噪が聞こえてきて
三年間慣れ親しんだ友の名が、惜しむようにさけばれる。
みんな、今日が最後の日だと知っている。
明日はもう、全員ここにはいない。
まるで、今が、この瞬間こそが世界の最果てだ。




「忍足」

「なんや?」

「手、かして」

「どうぞ」

「触っていい?」

「いくらでも」




そぅ、と忍足の腕の、薄く波打つ血管に手をあわせれば、まぎれもない命のながれるドクンドクンという鼓動が暖かく肌につたわった。その音は今あたしの目の前にたつ孤独な美しい黒い瞳に、確かに繋がっていて、そして、それはあたしの心臓の音でもあった。すべてのひとの体にながれる悲しい音だ。
カサリ、カサリ...........と頭上の木々から、こちらを見つめる幾千もの静かな虫の、ざわめく視線を感じた、葉をゆらした鋭利な彼らの正体を、今のあたしは知りたくはない。
おそるおそる触れた忍足の手の甲は堅く、あたしはその愛しい無骨さが自分のちっぽけな心では、絶対に噛み千切れないことを、何度も何度も、撫でて、確かめた。









100801